▲白米が、最高のディナーになる瞬間。感じて頂きたい!
あったかご飯に「そーっ」と、置く。すると、「梅干し」の香りが染み付いた湯気が「ほわ〜ん」と立ち上がり、それを嗅いだらもう止まらない!
「じゅわ〜!」と流れるように唾液が溢れ出す!もちろん待ちきれず、すぐに頂く。
まず、梅干しを箸にとり少し噛みちぎる。一気に口の中に旨みが広がった瞬間炊き立てのご飯を口の中に押し込む。すっぱさは、少しおさまるが旨みは、増えていくばかり!
噛むごとに感動が広がり、ご飯の一粒一粒が生まれかわったよう!一口目がなくなった時には、本当に涙が出そうなくらい。
次に梅干しが今まで置いてあり、ご飯にタレが染み込んだところを、ご飯だけで頂く!これがまた深いお味!もう後は、覚えていないくらいの勢いであっという間に食べると、ご飯が少し残る。もう一個食べたいけど、1日1個の楽しみ。
なぜ、これほどの「特別な梅」は、
生まれたのか?
理由 1
「この町は、つぶされる!」
からの復活!!
▲周りを渓谷に囲まれ農耕が難しい大山町。
今で は、梅の郷と呼ばれるほど、梅作りが盛んな町に。
1960年代、大分県大山町の村長、兼農協組合長(故:八幡 治美)は、アメリカ、欧州に渡るなど、何十年も先を読む優れた経営感覚の持ち主でした。その組合長がある時、断言したといいます。
「このままでは、町はつぶれる!!」
耕地面積の少ない大山町に稲作大規模農業ができるわけない!と。この頃は、とにかく収穫高を上げることに一生懸命。
そんな時、村長が方向転換を農家さんたちに伝えたのです。「コメでは、勝負ができない!それなら梅だ!」と!
そこで生まれたのが、今でも語り継がれるこの言葉「ウメ、クリ植えてハワイへ行こう!」企画でした。この言葉のインパクトに村民は、そのころでは珍しいハワイ旅行に行くことを夢見て、稲作から、ウメ、クリへの転換を図ったと言います。
しかしすぐに問題が出てきました。それは...
理由 2
小さな村だから収穫量が少ない。
だから・・
▲ 「質」にこだわり丁寧に育てられている大山町の梅。
「梅の栽培なら山岳地帯を上手に使える」といっても小さな村。収穫高は少ない...。そこで考えたのが
「質」に徹底的にこだわり、「無農薬」に取り組む事でした。
有機栽培という言葉自体が無い頃、まず健康で力のある土地づくりから始まり、キノコ栽培の工場から出たオガクズを大山中の土に敷き続けました。村長が毎年赤字を覚悟で、梅の質を長期的視点で上げようとしました。
梅はもともと無農薬栽培など ほとんど考えられません。もちろん大山の梅も無農薬ではありませんが、他の産地より驚くほど少量で栽培できるようになりました。
このような長期視点の取り組みから、40年もの歴史を経て作り上げられてきた大山梅。この大山町の中でも1番!どころか全国でも1番の称号をもらったのです。
▲ 今では息子さんが後を継ぎ、その味を守っています。
「昭和36年に梅干しを作り始めた時は、まさかここまで来るとは夢にも思いませんでした。しかし、ここまでくるにふさわしい努力をしてきたことは、間違いないと思っております。」と語るご主人。
「苦労は、人に話す物ではない」と頑固な面も持ち合わせていらっしゃいましたが、「今では、自分達で惚れ惚れするような梅が採れるようになりました。収穫されたばかりのフルーティーな梅の香りも、またたまりませんよ。」と嬉しそうに話されていました。